青函連絡船ページ2 函館を発つ
当時使用されていた連絡船は貨客船が「津軽丸」「十和田
丸」「八甲田丸」「摩周丸」「大雪丸」「羊蹄丸」の六隻。 そして貨物船が後に貨客船に改造された「檜山丸」「石狩丸」の二隻、そして貨物船で使命を終えた 「空知丸」「日高丸」「十勝丸」「渡島丸」、最大事には一日に客貨あわせて28往復の運航がなされていた。 青函連絡船の歴史は明治41年3月に、比羅夫丸によって一日一往復の運航が開始された時に遡る。大正3年には 車運丸による車両航送の開始、さらに大正13 年に895名乗船・貨車25両積載可能な翔鳳丸(以後同形三隻就航)の 就航と同年より開始された桟橋からの乗船により、本格的な青函輸送が幕をあけたので ある。 その後青函連絡船は順調に運航数を伸ばしていったのであるが、同時に一時代(二時代??)前の船舶ゆえの 悲惨な事故も何度も体験していった。衝突事故、 さらに空襲による船の沈没・・・極めつけは昭和29年9月26日の 洞爺丸台風による沈没事故であろう。「洞爺丸」をはじめとして「北見丸」「十勝丸」「第 11青函丸」の沈没、 死者・行方不明者1400余名というこの事故は、日本の海運史上最大の悲劇として今でも語り継がれている。 以後これを契機として、というと誤解もあると思いますが、とにかく一段と安全性を配慮、さらに近代化と船舶の 大型化が図られ、昭和39年に新造船「津軽 丸」が建設され、以後同形6隻が就航、我々の知っている青函連絡船の 姿になったのである。昭和44年には貨物船も一新(上記六隻)され、昭和47年には一 日28往復とピークを 迎えたのであるが、その後航空機の発達により、対北海道輸送も次第に形態を変えていき、さらに青函トンネルの 開通により、昭和63年 (1988年)3月13日、ついに青函連絡船はその80年に及ぶ使命を終えたのである。 その後の各船舶に関しては皆様もご存知のように、函館に摩周丸、青森に八甲田丸、そして東京船の科学館に 羊蹄丸が保存展示され、また海外に渡った船舶も 数多い。風化が心配される今日この頃であるが、貴重な歴史の 生き証人であるこれらの船の将来に幸あれと願わずにはいられない。 |
1977,2 函館駅も今はすっかり変わってしまったが・・・連絡船のりばの案内が忘れられません 1972,3 船の上から函館駅を臨む やはり連絡通路が印象的です 1972,3 出航した船の上から見た函館の桟橋 意外とこじんまりに見えました 1973,3 航海に発つ;連絡船の雄姿 Photo By 多摩清流 1972,3 去り行く函館桟橋 船上に佇む女は、何を想うのでしょうか 海を見つめる人がひとり・・・ 1972,3 青函の貨客船は威風堂々と見えたものです 1982,5 こちらは連絡船唯一のカラーの船写真 貨物船「空知丸」ですね |