川越線を走った助っ人103系の記録

2page

検査や事故の理由で雑多な車両がリリーフ役として川越線に入線しましたその後を振り返って
みたいと思います。
※編成番号は私のメモや推測も入っています、間違い等ありました場合にはご容赦下さい。
 

◆50編成(初代)

クモハ103-153+モハ102-321+クハ103-633(86年8月頃)ハエ55の事故により、北マトより借り
入れ(エメラルドグリーン色、冷房車)※住まいを転居する以前の事ですので写真がありません。

◆56編成(初代)

クモハ103-???+モハ102-???+クハ103-557(89年8月〜)検査時代替用として東ウラより借入
(ウグイス色に塗色変更済、非冷房)1990年4月10日 武蔵高萩で踏切事故に遭遇、使用不能と
なるその後可動状態に復帰するが、本線に出ることなく廃車

1989年9月 的場

◆サハ103−61<1965年 東急車輌製>( 〜1992年4月)

3両編成の増結用として(月)の71運用限定で使用された。首都圏最後の非冷房車だったカモ?
東トタ区で余剰となっていたサハ103-3005を借り入れ(のちに正式配属された)、老朽化の為に
廃車となった。

ハエ51編成に挟まれて使用されるサハ103−61、この車両だけ非冷房。 1991年5月 武蔵高萩

◆56編成(2代目)

クモハ103-107+モハ102-234+クハ103-558<IVクーラ車>(93年5月〜94年2月)事故車代替用
として東ナハより借入、塗装をウグイス色に変更の上入線。

1994年1月 武蔵高萩→笠幡

◆50編成(2代目)

クモハ103-65+モハ102-171+クハ103-584(94年3月〜94年9月)上記56編成検査切れのため、
検査時代替用として東ウラより借入、塗装をウグイス色に変更して入線、同年9月仙石線冠水の
助っ人として仙ミノにサハ(水色)を含む4両で転出、12月迄使用後、郡山工で解体。

1994年3月 高麗川

◆56編成(3代目)

クハ103-3501(種車クハ103-725)+モハ103-3501(種車モハ103-790)+モハ102-3501(種車モハ102-
2047)+クハ103-3502(種車クハ103-738)八高線電化用として103系3500番代が登場、電化前の
95年10月落成(半自動ドアボタン付)Tcは千ケヨ、MM’は東ウラより転出、05年3月の205系置き
換え直前まで使用された。

落成直後の3500番代、方向幕が京葉線のまま。                                 1995年10月 東ハエ区

◆57編成(初代)

クハ103-769+モハ103-438+モハ102-594+クハ103-782(96年1月4日〜)103系3000番代が
ATS-P取り付けのため入場。その補充として入線クハは千ケヨ→千ラシ転属の間合い使用。
モハは千ラシの廃車予定車(東ハエ標記、ウグイス色)

八高線電化開通後も活躍を続けるハエ57、<電化直通運転>のステッカーまで貼ってあった。

1996年3月 武蔵高萩

◆50編成(3代目)

クハ103-347+モハ103-514+モハ102-670+クハ103-348(96年12月)103系3000番代検査入場
の予備として、東トタの廃車予定車を借入オレンジ色のまま短期間だけ走行(残念ながら走行中
には遭遇しませんでした。

1996年12月 東ハエ区

◆50編成(4代目)

クハ103-717+モハ103-746+モハ102-2003+クハ103-774(02年11月)209系3000番代の
検査入場予備車として、南武線横ナハの廃車予定車を借入てカナリヤ色,横ナハ標記のままで、
11/23〜30頃まで運用された。

2002年11月 西川越→的場

その後103系が全廃になるまで、以上のような形態の助っ人はないと思われます事故や
故障の代替として201系(四季彩も含む)が何度か入線した様ですが、確認していません。
今年(05年)になっても長く103系が活躍したのは、どうやら205,209系の代走だったのカモ、
助っ人を迎えた103系3000番代も、引退直前は自身が代走役となったみたいですね。
(私の推測ですが)長いこと君臨した103系ももうすぐ消えてゆきますSLファンの筈だった
私が、ここまで103系に入れ込んでしまうとは正直意外でした、長々とお付き合いいただき
ありがとうございました。

<<1page

増結3号車トップ 増結3号車目次 思鉄トップ