頸城鉄道は、全国各地に鉄道敷設が持ち上がった1910年の軽便鉄道法の施行により、1911年に地元の
大地 主らによって路線計画が提唱された。その後雨後曲折を経て1914年1月に着工、その年の9月に
新黒井〜下保倉間が完成し、10月1日に頸城鉄道の開業を みたのである。  残りの下保倉〜浦川原の
区間は1915年の12月に工事が始まり、翌年の5月に開業、これでようやく全線開通となったのである。
新黒井−百間町 間:5.4Km、 百間町−飯室 間:5.9Km、 飯室−浦川原 間:3.7Kmの営業であった。

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百間町にて  昔雑誌で見たこの光景に憧れはあったのですが、ついに行けませんでした。

          

       部分廃止を告知する看板                       百間町駅の駅名票

百間町に休むハ5などモニター屋根オープンデッキの木造客車達の
ルーツは、魚沼鉄道。このスタイルは何ともいえない魅力があります。

頸城の社紋はまるにKの字、地元の人には頸城鉄道は"まるけい"と親しまれていた。

百間町にて  頸城の顔だったホジ3は、昭和7年オープンデッキのボギー客車ホトク1の妻貫通口に扉を
つけただけ、殆ど外観を変えずにガソリン動車化したもの。昭和26年に密閉式車体に改造のエンジンを
ディーゼルに換装して気動車化して使用されていた。車内に機関が飛び出していたのも特徴である。

百間町にて  除雪用ロキ1 昭和12年、ワ12を改造したもので、当初はキャデラックV8機関を装着していたが、
昭和26年に中日本重工のディーゼル機関に載せかえられた。主に構内除雪に使用された。

ロキ1の正面

百間町にて  こちらも除雪用ラキ1  昭和24年魚沼線に使用されていたケワ153(元魚沼鉄道)をラッセルに
改造したもの。最初は固定プラウだけだったが、昭和33年頃稼動翼付きに改造されている。なお、現在は、
成田夢牧場に保存されています。

こちらはご存知コッペル2号機  明治44年Koppel製の9tタンク機。後に西武山口線で活躍したことで
記憶に残る機関車となりました。この時は直江津の頸城鉄道自動車本社に保存されていたとの事です。

コッペル2号機正面

頸城鉄道の終点浦川原駅跡は今は東頸バス本社になっているとの事です。そしてそこには今北越急行が
走っており、元の浦川原の近くにはほくほく線の「浦川原駅」が誕生!! 頸城の廃止で鉄道の無くなった
浦川原村も、今はルートこそ違えまた村にレールが繋がったのです。

 

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