大分交通別大線

 

大分交通別大線を訪れたのは昭和46年、二度目の九州旅行の時のことでした。前日が青井岳、
翌日が豊肥 本線を訪ねた、そのあいだの日のことでした。午前中豊肥本線で朝の列車を撮り、
その後にここを訪問したものの、大分から高崎山を経て東別府までの乗車、極 めて中途半端
でした。何故亀川駅前まで行かなかったのか、今となっては後悔しているものの、廃止8ヶ月前に
この鉄道を記録できたのは幸運でした。それにしても、雑誌などでもあまり紹介されずに終わった
感のある大分交通別大線。地味だったものの九州最初、しかも全国でも五番目に走り始めた
電車だっ た別大線。他の九州の路面電車が元気なだけに、もう少し頑張っていたなら、また
時代も違ったものになっていたかも知れません。 

1971年8月10日 撮影

大分駅前にて  出発を待つ別大線の電車

こちらも大分駅前にて       出発を待つ100系102

大分を出て市街地の複線区間を行く500系。ひどい写真ですが500系はこれ一枚しか撮って
いないものでご勘弁を500系は、昭和31年から34年にかけて製造された東洋工機製の新車。

 

大分交通別大線、その名のとおり県都大分から屈指の温泉地別府を結び、更にその先の国鉄亀川駅にいたる鉄道だった。
 その歴史は古く、1890年に電気鉄道創立事務所が設置されたことに始まる。1894年には豊州電気鉄道により免許が
取得され、1900年5月10日、 当時の別府町字南町から大分町字堀川の間に最初の路線が開業し、ここに九州最初の
電車が運転を開始したのである。その後いくつかの会社の変遷を経て、1927年6月に別府大分電鉄として分離独立し、
この別府大分電鉄時代に積極的な路線の延長や車両の増備を行い、ほぼ別大線の形態が完成していったのである。
 その後戦時統制により大分県内の交通各社(六社)が合併し、大分交通が誕生し、以後この路線は廃止まで大分交通
別大線として、地域の足として活躍したのである。途中別府の北浜より国鉄別府駅前までの支線もあったが、こちらは
一足早く1956年に廃止になった。1964年に発行された鉄道ビクトリアル私鉄車両めぐりで、この路線が取り上げられて
いるが、この中で {最近では路面電車が邪魔者扱いされて次々と消え ていくが、別大線は軌道法による路面電車的
存在であっても、亀川ー別府ー大分を短絡する都市間電車としての性格が強いから、工業地帯の発達と観光地の繁栄に
つれて、ますます進化発展するであろうことは、もはや疑う余地が無い}  と記してある。しかし自動車社会の進度は予想
以上に強く、また手狭な国道の拡張の問題、国鉄日豊線の電化もあり、結局1972年4月4日、72年の生涯を閉じたのである。
冒頭にも述べたように、路面電車の見直しがもう少し早かったらと思うと・・・・

全線18,4キロ、大分駅前よりかんたん、両郡橋より亀川駅前までの11,8キロが複線、途中のかんたんー両郡橋の6,6キロが
単線となっていた。

 

東別府駅前付近を行く100系、110は 、昭和3年4月川崎車両で製造されたボギー車。

東別府駅前にて 撮っててよかった唯2のカラー写真、これがなければまた車体色がわからないところでした。

東別府駅前にて 300系は 301,302の二両あり、昭和29年日立製の新車であった。

東別府駅前の駅名標識

高崎山にて  別大線のすぐ上には国鉄日豊本線が走っています。

高崎山に進入する100系  1928年から6年にわたって川崎車両で製造されたボギー車100系。その中の8両が
1956年に総括制御に改造され、番号が100系の150番台に改番された。この164は1929年製の114からの改造

この二枚は高崎山での交換シーンで、別大線は「かんたん」ー「両郡橋」間の単線区間で
タブレット交換がありました。後ろに見える700の数字 これは高崎山のサルの生息数です。

高崎山を出発する164    昭和初期製らしい無骨なスタイルがたまりません。

こちらは2カットだけ撮ったカラーの一枚、別大線には数少ない広告電車300系301。 

 

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